そのままでいい。みんなと違っていい。吃音当事者が伝える吃音症の生き方
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吃音で生きることが嫌になったら | 人生における幸せとは

もう嫌だ!生きることをやめたい

吃音があることで笑われたり、変な目で見られたことは一度や二度ではありませんでした。子供の頃、学校で教科書を読む順番が回ってくると、立ち上がって読み始めるのですが、どもって全く読み進めることができませんでした。もし「吾輩は猫である」を読もうとすれば、たぶんこんな感じで読み始めるでしょう。

「わっ、わっ、わっ、わっっっ・・・わぁ~~わぁ~~がはいは」

「ねっ、ねっ、ねっ、ねねねね~こである」

教科書を読むと、後ろの席からクスクスと笑い声が聞こえてくるし、友達はみんな十数秒で読み終える一小節を、私は1分、2分と掛かっていました。しかも言葉が詰まるのは不思議と漢字の単語。自分では読みは分かっているのに声にして出せないでいると、先生が読みを教えてくれる。すると何とか読み進めることができるのです。だから周りの友達は

「きっと漢字が読めないんだ」と思っているに違いない。

そう思うと悔しくて、恥ずかしくて仕方がありませんでした。しかもそのようなことが毎日続くのです。特に国語の授業は教科書を読む順番が回ってこないか不安で、朝からずっと緊張していました。こんなに辛く恥ずかしいことが、これからもずっと続くのかと思うと本当に生きていることが嫌になり、何度も生きる事を止めようと思いました。吃音は、それほど辛い毎日を私にもたらしていました。

吃音の何が辛いのか

口がきけないよりいいんじゃない?

確かにその通りかもしれません。全く話ができないよりも、どもりながらでも口がきけるわけなので、前向きに捉えればその通りです。でもやっぱり吃音は辛いんですよね。何が辛いのかと言えば、やはりスムーズに話すことができないことによる恥ずかしさ。そして周囲の反応です。

吃音は病気や障害ではなく「変な人扱い」

声をまったく出すことができずに、普段から手話や筆談でコミュニケーションをとっている人であれば「話ができない」「声が出ない」ことは明らかです。そのような人を悪く言う人はいないでしょう。

ただし吃音は違います。話しやすい言葉はスムーズに話せるのですが、話しにくい言葉になると途端に言葉が詰まってしまいます。特に始めの例のような連発型吃音(ある言葉を連続して発声する吃音)が出ると変な目で見られるうえに、笑われるし、避けられるといったきつい反応を示されることもあります。

話し方の真似をされる

これが一番精神的にダメージを負います。私も何度も真似をされましたが、一番傷ついたのは中学生の頃、先生に真似をされたことです。技術家庭科の授業で、木を材料にした物は何があるか?という問いかけに答えるよう私が指名されたので「つ、つ、つ、机」と答えました。それを聞いた先生は「つつつ机」と反復したのです。これはとてもショックでした。しかもその授業は父兄参観日で、私の母親がいる前で真似をされたので、傷ついたのと同時に母親に対して申し訳ない気持ちにもなりました。

スムーズに話せないことが恥ずかしい

根本なことですが、吃音はスムーズに話せないので、そのこと自体が大変なストレスです。話したいことが話せない。伝えたいことを伝えられない。言葉が急につっかかって声が出なくなる。名前や住所、電話番号などの固有名詞が言えない。さらに今までスムーズに言うことができていた単語が言えなくなったりすると、とてもショックです。

電話で話せない

多くの吃音の方が電話が苦手とおっしゃっていますが、私も電話は全く声が出せなくなります。自分の名前をはじめ、会社であれば「お待たせしました」とか「お電話変わりました」といった台詞がどうしても声にして出せません。会社で電話をかける必要があるときは、倒れそうなほど緊張して電話をかけていました。

吃音で生きることが嫌になる瞬間

世の中は普通に声を出せて話ができる人が大多数ですが、中には先天的だったり病気によって声を失った人が極少数いらっしゃいます。「話せる人」と「話せない人」とは明確な境界線があって、話せない人はすぐに認知されるし、社会的な配慮があります。

一方で吃音は、吃音を知っている人や理解している人は、ほとんど居ません。世の中に全くといっていいほど認知されていないので、吃音というカテゴリーが存在しません。だから吃音者は「話せない人」ではなく「話せる人」として生活しなければならず、これが吃音者が苦しむ一因になっています。「話せる人」のカテゴリーでは、話ができて当たり前なので、吃音者は

  1. 話し方が変な人
  2. 人前で話す場面ではひどく緊張する人
  3. 何を言っているのか分からない人
  4. 変な人・気持ち悪い人
  5. 話すのが遅くてイライラする人

この様な目で見られます(扱われます)。一生懸命伝えようとしているんですが、それができない、理解されないことが凄く悔しいし、追い打ちをかけるように、バカにされたり、真似をされたり、笑われたりするのでとても傷つきます。

教師にあきれ顔で笑われた挨拶訓練

高校に入学してすぐに職員室へ入室するための挨拶訓練というもの行われました。校内にいつくか職員室があり、指示された職員室の指示された先生から合格印をもらってくるというもので、私にとって地獄の訓練でした。

まず指示された職員室の入り口でドアをノックして、返事があれば入室します。そこで

「1年〇組のワタナベダイスケです!」

「〇〇先生いらっしゃいますか?」

から始まり、その後にも台詞があったと思います。私は入室するまではよかったのですが、そこから先に進めませんでした。まず最初の「イチネン」が声にして出せないのです。すると

「つったってないで何か言え!」

と先生に指摘さるのですが、それでも一言も声が出ないので「もう一度やり直せ!」と言われ、廊下に出て最初からやり直し。再びノックして入るのですが、やはり声がでません。プレッシャーで頭が真っ白になり、脂汗をかきながら全身に力を入れて、酷くどもりながらなんとか名前を言い切ったと思ったら、

「何言ってんのかわかんねーよ。自分の名前も言えないのか!」

と怒鳴られまた最初から。そんな事を4~5回繰り返したでしょうか。最後にはあきれ顔で笑いながら「もういいよ。こっちにこい!」と言われ、書類にハンコをもらったことがありました。

この時は本当にこたえました。これからもこんなことがずっと続くのかと思ったら、将来に希望など見えなかったし、こんなに辛い思いをしてまで生きたくないと思ったので、本当に生きる事を止めてしまいたい思いが頭をよぎりました。

人はどんなことに幸せを感じるのか

吃音によって嫌な思いをするたびに、なぜ自分は生きなければいけないのか?生きる目的は何なのか?という疑問の答えを考えることがあります。結局、何をやるにしても辛い思いをするだけなので、波風立てずに無難に過ごして人生を早く終わらせたいと思うこともありました。しかし人間は本能的に生きようとするので、本音ではせっかくこの世に生まれてきたのだから、幸せな人生を送りたいという思いが、やはり心のどこかにあるものです。

吃音があると日常生活で、嫌なことや辛い経験をすることが沢山あるので、嫌なことや辛いことばかりが記憶に残りますが、それでも日常生活の中には嬉しいこともあります。私が日常のなかで感じる最も嬉しい瞬間は、人から「ありがとう」の言葉を頂いたときです。

「ありがとう。助かったよ。」

そんな言葉を掛けられながら感謝されることが私はとても嬉しいし、そんな瞬間に生きている喜びを感じます。

人が生きる目的とは何か

人は思い描いた理想の自分が実現できないときや、自分の願いが叶わないときに、生きていることが辛いと感じます。吃音と共に歩む人生は、笑われたり、からかわれたり、避けられるなど、辛い思いをすることが沢山あります。そんなとき、吃音を治したいという願いがこみ上げてくるでしょう。ただしあまりにも吃音を治したいという願いが強いと、いつか願いが叶わない現実に絶望し、生きることが辛くなります。

私は中学生の頃、吃音を笑われたり、バカにされたり、いじめられたり、暴力を振るわれたり、心が傷つくことが沢山ありました。しかし負けるだけでは悔しいので、自分を認めさせるために、自分にできる事を精一杯行ないました。例えば私は足が速かったので、学園祭のクラス対抗リレーで何名か抜いて順位を上げたり、新聞委員として学園祭で壁新聞を作って一位にもなりました。壁新聞の作成で私はリーダーを務めたので、一位を取れたことでみんなに祝福され、またクラスのみんなに喜んでもらえたことが、今では良い思い出となっています。

当時は見下されることが嫌だったので、どうすれば自分の価値や存在を認めさせられるかを考えていたので、みんなを喜ばせようとは思っていませんでした。しかし今になって思えば、自分にできることを精一杯行ったことで、人の役に立てたし、感謝されて、喜んでもらえて、そしてそれが自分の喜びでもありました。人は自分の欲を満たすためではなく、人に必要とされ、人に感謝され、人の幸せのために生きることが最高の幸せだし、人からありがとうの言葉をもらうことが生きる目的であると私は思います。

吃音を悲観する必要はありません。たとえ吃音であっても、人に必要とされる自分であれば、笑われたりバカにされることはありません。むしろ頑張りを認めてもらえて「吃音でも頑張ってるね」と応援してもらえます。吃音で生きることが辛いと感じたら、理想の自分(吃音が治り、スラスラ話せる自分)を追い求めるのではなく、人のために何ができるかを問うことで、きっと自分が幸せになれる方法に気が付くことでしょう。

記事のまとめ

  1. 吃音者が苦しむ原因は、吃音者が「話せる人」として生活しなければならないため。
  2. 吃音を治したいという願望(意識)が強いと、生きることが辛くなる。
  3. 人に必要とされ、人に感謝され、人の幸せのために生きることが人生の幸せ。
  4. 人からありがとうの言葉をもらうことが生きる目的。

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